鬼怒川金谷ホテルの休日
第六回
小説家
木村 友祐
休んでいいよ、と声がして、そうか、休んでいいのかと、新宿から日光に向かう特急に乗った。めざすは、鬼怒川金谷ホテル。一緒に小説家デビューした心の友、温又柔さんも泊まったところだ。
到着すると、お疲れさまでしたぁ、と労りの言葉とともに迎えられる。思えば、もうそこから、休息の極上フルコース料理をいただくような時間がはじまっていた。
テラスと温泉露天風呂が付いたスイート洋室は、部屋にいながらにして自然の温もりに包まれているような、木と土と石の色を基調にしたインテリア。鬼怒川のせせらぎをそばに感じる露天風呂は、さらさらした温泉の湯が肌によくなじみ、希少な天然石の十和田石でできた浴槽の、ざらっとしながら肌に吸いつく感触も心地いい。
そして楽しみにしていたダイニングでの夕食は、その一品一品に、美味しさを引き立てるための独創と、繊細な手仕事を感じる。肉や魚介類とともに野菜の旬の味わいも大切にしているのがわかる。野菜は栃木県内の契約農家のものだそうで、野菜を大事にする料理は安心感を抱かせるというか、信頼できる。
食後にいただくホテル特製ショコラ。ジャズを聴きながらゆったりと煙草が吸えるシガーサロン。ここには好きなものが全部あると陶然とするけれど、でも、まだ終わりじゃなかった。
ぼく的に圧巻だったのは、樹齢約二千年の檜でつくられたという大浴場「古代檜の湯」。淡黄色の檜の心地よい香りが、浴槽からだけ香るのではなく、天井からも降ってくるよう。ふと気づくと、天井に貼られた檜板は数メーターもの長さでも継ぎ目がなかった。それだけ高く伸びた木の命をいただいたということ。肺の隅々までその香りを吸い込むと、二千年の命を分けてもらっていると感じた。
大浴場の露天風呂につかる。そばに植えられた木の葉裏に、湯の面が照り返した光がゆらゆら揺れていた。それを見上げるぼくのからだも、お湯とともにゆらゆら揺れる。よいお湯は、用事とか他人の評価に応えようとあくせくしていた意識をほどき、いつも自分とともにある「からだ」そのものの存在に気づかせてくれる。
揺れながら、置いてきた日常や猫たちのこと、ここに連れてきたい人々のことを思い浮かべる。このホテルも2020年の春頃にはあのパンデミックで大変だった。宿泊客よりもスタッフが多い日もあったそうで、その時のことを率直に話してくれた方は「寂しかったですね……」と言っていた。耐えて持ちこたえて、待っててくれたんだ。
視線を下ろすと、木の根元に「夢」と大きく刻まれた石があるのに気づく。最高の心づくしと、最高の温泉と。実際これは夢みたいなものかと思い、いや、そうではないとも思う。自分がいま、命を宿して生きている。そのことを大切に慈しむ気持ちにさせてくれる場所が、たしかにここにあるのだから。
木村 友祐 〈きむら ゆうすけ〉
一九七〇年青森県生まれ。小説家。愛猫家。郷里の方言を取り入れた『海猫ツリーハウス』でデビュー。ほかの著書に『聖地Cs』『イサの氾濫』『野良ビトたちの燃え上がる肖像』『幼な子の聖戦』(第一六二回芥川賞候補作)など。最新刊は温又柔との往復書簡『私とあなたのあいだ─いま、この国で生きるということ』。
『鬼怒川金谷ホテルの休日』とは‥‥
作家やアーティストをはじめ、鬼怒川金谷ホテルを愛好してやまない、注目のクリエーターが綴る滞在記です。