鬼怒川金谷ホテルの休日

第七回

一枚の贈り物

エッセイスト・料理家

寿木 けい

中岩河川敷から見る東武鉄道『特急スペーシア』

北へ、さらにその奥へと向かう旅に惹かれる。北陸の雪深い土地で育ったせいだろうか。

電車に揺られていると、浅草の色の氾濫は遠ざかり、心はひとつところ──これから向かう鬼怒川金谷ホテル──へと集約されていく。寒く閉じた場所のほうが羽根が伸ばせる性分というのは、考えてみれば不思議なものだ。

部屋に案内されたらすぐに、厚いセーターを脱いで、部屋の露天風呂へ。暮らしの慌ただしさも、硬く張ったこめかみも全部、湯に溶かしてほぐしてしまう。見渡せば、太陽が山の稜線を茜色に染めている。空は澄みきった一色。暮れてしまうのが惜しい。

この旅へは、気に入ったワンピースを一枚持ってきた。風呂上りのぬくい肌にまとって、裸足で部屋を歩きまわる。ふくらはぎにシルクがかすれ、さらさらと気持ちがいい。裸足──これはホテルでは叶わないこと。ホテルと旅館の美点の両方を、この宿は備えている。ホテルの開放された朗らかさ。そして、旅館のもつ陰と親しみ。

スパがとても評判がいいと聞いて、たのしみに予約をしておいた。セラピストに肌を大切に慈しまれ、手の温かさに心を許して、少し眠ってしまった。

庵 SPA KINUGAWA

鏡の前に立ってみれば、頬は潤いと血色を取り戻している。女前に仕上がって、向かうは、ダイニング「JOHN KANAYA」。誰に見つめられても恥ずかしくない肌だが、ひとりである。

鬼怒川の夜は早い。だからこそ、長い夜に胸が躍る。

渓谷の夜の暗さに慣れたばかりの目を、スカルプチャードグラスの淡く華やかな光が迎えてくれる。描かれているのはフルーツバスケット。豊穣、楽園、秘密──この隠れ家にふさわしいモチーフだ。

乾杯は、ジョン・カナヤも愛したシャンパン「ナポレオン」で。この一杯のために、私は生きている。趣向を凝らした、こじんまりとしたいくつもの皿が目の前に運ばれては、私はその豊かさに追いていかれないように集中する。金谷玉子に、名物の和風ビーフシチュー、春の七草の赤出汁。歯応えも風味もさまざまに工夫された、海、川、野山の命。よそ見をするひまなどないくらい、味わうことに夢中になっていた。

ナポレオンと金谷玉子

古代檜の湯

女がひとりの夜をどう過ごすかは、どうか伏せさせていただきたい。

日の出を待って、大浴場「古代檜の湯」へ向かった。誰よりも早く朝をつかまえようと、決めていたのだ。

湯に体を沈めれば、木漏れ日が低い位置からまぶたを柔らかく射してくる。こういうとき、木々の名前が詳らかに分かる人になりたかった。人間よりももっと豊かであろう、それらの木々の名を。

樹齢二千年とされる檜は、滑らかな白い木肌から、今も香気を放ち続けている。その旺盛な生命力に誘われ、何度も深呼吸をした。木の恵みが細胞にまで行き渡るように祈りながら。

そのとき、湯が湧き出すのと同じ速度で、雪が降ってきた。ちら、ちら、冷たい綿が頬にふわりとのってくる。朝の光を背景に落下する、無数の、白い可憐な姿。一枚の見事な絵。突然の贈り物とともに、旅の終わりが近づいていた。

一文字も書くまいと、自分を甘やかしにきた旅だった。それなのに、こうして書かずにはいられない力が、この宿にはある。

スイート洋室

寿木 けい 〈すずき けい〉

エッセイスト・料理家。大学卒業後、出版社に勤務。編集者として働きながら執筆活動をはじめる。著書に『わたしのごちそう365 レシピと呼ぶほどのものでもない』や『土を編む日々』などがある。

『鬼怒川金谷ホテルの休日』とは‥‥
作家やアーティストをはじめ、鬼怒川金谷ホテルを愛好してやまない、注目のクリエーターが綴る滞在記です。

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