鬼怒川金谷ホテルの休日

第二回

流れるサマータイム

イタリア語翻訳家

マルティーナ・ディエゴ

スイート洋室からの眺め

深緑の山に囲まれたスイート洋室、その贅沢なバルコニーにある露天風呂にゆっくりと浸かっていた。周りに視線を走らせると、山々の稜線は、夏の蒸し暑い日に脱ぎ落とした浴衣の姿を描いている。露天風呂の煙が立ち上る、青空に向かっていつまでも上がっていけるが如く。甲高く鳴きながら、美しい景色の遠くを翔ぶ一羽の鳶がいる。その鳥は、息抜きのひと時を楽しむため、鬼怒川金谷ホテルを訪れているこの瞬間の私の気持ちを表すのに丁度いい喩えだろう。

風呂を上がり浴衣を着る。裸足でふかふかとしたカーペットを歩いて居間に戻る。部屋には日差しが射し込み、大きな窓硝子は、まるで液晶画面かのように光っている。ミニバーのラインナップを覗いてみると、ベルヴェデール・ウォッカからジャックダニエルまで、お酒が各種揃っている。ウイスキーの小瓶のキャップを開け、グラスにやさしく注ぐ。足元のテーブルの上には、アルバムが二枚用意されていた。一枚は「センチメンタル・ムーズ」という、名曲のつまったCD。コンポにCDを入れ、プレイボタンを押し、居心地の良いソファに身を任せる。懐かしい「サマータイム」の音符が広い部屋に流れ込むにつれ、夏の夕刻の空は朱色に染まり始めた。

スイート洋室

スイート洋室

色が変わり終わると、ホテルの女性が部屋まで呼びに来てくれた。「夕食の支度ができました」と、畏まった声で告げる。彼女が着ている着物の生地は黒く、柄は生き生きとした白い燕。下の階に降りていくと、まずラウンジの座席を案内された。天井と柱の照明がフローリングに反射し、その明暗の効果の中に吸い込まれていく私がいる。スピーカーから聞こえてくるトリオのトランペット―そのソロが、バーテンダーにもらった夏梅のカクテル「マジックアワー」の味覚をそそってくれる。

夕飯は、思いがけない味のリレー。懐石は日本の伝統料理のひとつだが、金谷流の懐石は、「和敬洋讃」の理念に基づき作られている料理。次々と目の前に運ばれてくる皿は、いまだかつてない味わいがほとんどだった。日本料理でありながら、西洋の味もする、不思議な味覚の体験。栃木県産の地のお酒を呑みながら、先附の金谷玉子にはじまり、締めのルバーブシャーベットまで、2時間にわたり「一食一会」のジョン・カナヤのもてなしを堪能した。「お食事は如何でしたか」と尋ねてきたウェイターに、シンプルに「完璧でした」と答えた。

ダイニング

札幌から那覇まで、日本列島を幾度も旅してきた私は、数多くのホテルやリゾートに泊まってきた。宿泊の達人のつもりでいたが、今まで楽しんできた様々な雰囲気の宿の中でも、鬼怒川金谷ホテルには「特別」さがあると今回の滞在で感じた。まさに、ここには他では味わえない、何か特別な漂いがある。和の要素と洋の要素がうまく溶け込むそこには、類のない独創的空間が醸し出されている。「贅沢さ」のみならず、ホテルの雰囲気の中には「粋」が満ちている。鬼怒川金谷ホテルに滞在した私は、一泊のみではあったものの、夢かのような現実を生きた。

スイート洋室 露天風呂

マルティーナ・ディエゴ

マルティーナ・ディエゴ

一九八六年イタリア生まれ。翻訳家、詩人、エッセイスト。谷川俊太郎『二十億光年の孤独』と『minimal』、夏目漱石の俳句集を伊語訳、刊行して話題に。詩集に『元カノのキスの化け物』。日本での生活を綴る随筆集を刊行予定。

『鬼怒川金谷ホテルの休日』とは‥‥
作家やアーティストをはじめ、鬼怒川金谷ホテルを愛好してやまない、注目のクリエーターが綴る滞在記です。

ホーム鬼怒川金谷ホテルの休日流れるサマータイム