鬼怒川金谷ホテルの休日
第四回
小説家
温 又柔
エントランスでは、天女が、舞っていた。天女は、わたしを、待っていた? マッテ、マッテ、マッテイタノネ、と胸の中で呟くうちに頬が緩む。
日光東照宮神輿舎の天井に描かれた「天女舞楽の図」をどことなく連想させる「天女」のモチーフのステンドグラスは、このホテルの創業者であるジョン・カナヤが、ガブリエル・ロワールにオーダーしたものだという。
「この天女さまたちなら、私の代わりにお客様を十分におもてなししてくださるだろう」。
味わい深い色合いの木彫りのホルダーが印象的な鍵を刺し込んで回せば、いよいよジョン・カナヤ・スイートだ。艶やかに磨き抜かれた木の床にアンティークモダンの家具がなじんでいる。目の前には山々と清らかな渓谷。辿りついたばかりなのに、早くまたここに帰ってきたい、と感じてしまう。
浴衣に着替えていそいそと「四季の湯」に行く。あかるい空の下で、ナンテシアワセ、と独り言を漏らす。心身がしゅるしゅると音をたててほどけてゆく心地だった。夏なら、東屋で湯涼みをしてもよさそう。耳を澄ませば川のせせらぎが聞こえるかもしれない。
湯のあとは、ダイニング「JOHN KANAYA」へ。
お酒にめっぽう弱いわたしは、日本酒・梅酢・鰹節のエキスを合わせた煎り酒を啜っただけで、もうほろほろとなってしまう。金谷玉子の美味しいことときたら……冬の旬魚のお刺身も絶品。楽しみだった金谷特製和風ビーフシチューにありつく頃にはもう夢半ばだ。 ウェイターが歌うように教えてくれる……特製デミグラスソースとフォンドヴォーを野菜と三日間かけて煮込み、八丁味噌・たまり醤油を加えたものです……食後の珈琲は、宝石のようなショコラとともにラウンジのスイーツワゴンでいただく。葉巻を模したショコラを、葉巻をたしなむ恰好で齧ってみる。ジョン・カナヤほど葉巻が似合う日本人を私は今後知る気がしないと思いながら。
さあ、夜。スイートルームの夜。ほの明るい照明の中で、わたしは裸になる。ジョン・カナヤ・スイートはビューバス付。天然温泉をたたえたプライベート風呂がわたしを待っている。
目前には夜の鬼怒川渓谷。ゆらめく光が天井を踊る。湯のなかにたゆたうしろっぽいからだを、ひとのもののように眺める。マッテマッテ、と口ずさみたくなる。この日を待ってた。今わたしの心が舞ってる。
湯上りの鏡にうつる自分が、心なしかいつもよりもずっとビジンに見える。きっとこれは魔法の鏡なのだと思う。そう、天女に迎えられたときからずっと、わたしは魔法にかかりっぱなしなのだ。ねむるのが少々もったいないけれど、ここで目覚める朝を思ったとたん、しあわせな夢の予感に誘われる。ベッドに横たわると、子どもの頃によく思った、雲の中でねむってみたいという夢がとうとう叶ったみたい。
至福の休日の只中で、眠りにおちたあともわたしの心は舞っている。
温 又柔
小説家。著書に『台湾生まれ日本語育ち』、『空港時光』、『魯肉飯のさえずり』木村友祐との往復書簡『私とあなたのあいだ―いま、この国で生きるということ―』など。『真ん中の子どもたち』が第一五七回芥川賞候補作に。日本と台湾、双方で注目される若手女性作家である。
『鬼怒川金谷ホテルの休日』とは‥‥
作家やアーティストをはじめ、鬼怒川金谷ホテルを愛好してやまない、注目のクリエーターが綴る滞在記です。