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鬼怒川金谷ホテルのダイニング JOHN KANAYAのルーツは、あるレストランに遡ります。それはさまざまな美食家たちが通い詰めた西洋膳所ジョンカナヤ麻布。初代シェフはフレンチの鉄人として知られるムッシュこと、坂井宏行氏です。
ダイニング JOHN KANAYAの“和敬洋讃”というコンセプトも、西洋膳所ジョンカナヤ麻布が掲げてきたものでした。坂井氏の代名詞といえば、日本料理と西洋料理の伝統と革新を融合させたフランス料理。独自のスタイルは、西洋膳所ジョンカナヤ麻布で培われたものであり、同店のオーナー、そして鬼怒川金谷ホテルの創業者でもあるジョンカナヤこと金谷鮮治氏の言葉がきっかけとなっています。現在は、フランス料理店ラ・ロシェルオーナーシェフとして現場に立ち続ける坂井氏を訪ね、鮮治氏から教わったことを振り返っていただきました。
今日は坂井シェフが西洋膳所ジョンカナヤ麻布に勤務されていた頃の写真を持ってきました。まずは西洋膳所ジョンカナヤ麻布と関わるようになった経緯をお聞かせください。
懐かしいですね。お話をいただいたのは、私が四谷の会員制クラブの鉄板焼き部門で働いていた頃でした。当時のお客様に紹介されたのが西洋膳所ジョンカナヤ麻布だったんです。はじめて鮮治氏に会ったときの私は29歳で、氏は前例にとらわれない若いシェフを探していましたが、私にはできないなと思ったんです。それでも二番手でいいから来てくれということで働き始めましたが、オープン日が迫っているのにシェフが決まらなかったんです。
そもそも応募が少なかったんですか?
いえ、シェフ候補者の履歴書を見ると、高級レストランで働いている人ばかりで申し分のないキャリアでした。でも、鮮治氏は「過去の栄光を背負った人ではなく、建設的に物事を考えられる人がほしい」という方針だったんです。
最初から坂井さんがシェフだと鮮治氏は決めていたんですね(笑)。
そうなんです。私が料理長だと考えるようになってオープン当日に向けて準備をしていきました。ただ、当時のメニューは1人3万円くらいの金額設定だったんですね。1970年代の3万円は今よりずっと高価です。それで、オープンから3年くらいは暇で(笑)。鮮治氏はそれでも懐が深いというか、「とにかく我慢だ。その間に勉強しなさい」とおっしゃっていました。私は懐石料理を学ぶために、有名な高級老舗料亭などに研修に行かせてもらってました。
鬼怒川金谷ホテルが掲げる「和敬洋讃」は西洋膳所ジョンカナヤ麻布から受け継がれている哲学ですが、懐石料理を学ぶことでご自身にはどんな発見がありましたか?
どうして懐石料理を学ばなきゃいけないんだと思っていましたが、研修先で懐石料理に魅せられていくんですよ。春夏秋冬ではっきりした食材を提供するのが懐石の素晴らしさなんだと知っていくと同時に、和食特有の包丁技にも魅せられて勉強するようになって。ある日、とある雑誌の女性編集者の方が店にいらしたんですよ。どこかで私が面白い料理を作っているということを聞きつけたらしく、彼女が記事を書いてくれたことがきっかけで、どんどんお客様が来るようになりました。いまだにその記事は大切に持っていますよ。
西洋膳所ジョンカナヤ麻布の定番料理は何でしたか?
食材を贅沢に使った10種類のオードブルですね。当時はまだ日本にフォアグラが完全に入ってこない時代だったけど、ジョンカナヤでは、あん肝をフォアグラに見立てて使っていたんです。あん肝はきちんと血抜きして、蒸して様々な処理を施すとフォアグラのようになるんですよ。そこにも和と洋のテイストがミックスされていましたね。
鮮治氏から坂井シェフに対して「和敬洋讃」についてどんな説明があったのか憶えていますか?
まず日本人はこれから贅沢を楽しむ時代に入っていくと。日本人は胃袋が小さいから、いろいろな味を楽しむのであれば懐石料理が一番なんだとおっしゃっていましたね。そこで、フランス料理に懐石料理の要素を組み込みたいという発想だったんです。私はイナゴの佃煮をペースト状にできないかとリクエストされて、それをガーリックトーストに塗って食べるなどの試作を重ねて発想を膨らませていきました。鮮治氏の言葉と発想がなければ、今の私の料理はなかったでしょうね。美食家である彼の要望に、私は若さゆえの対抗心で挑戦して、それが認められたかのように、お客様がさらにいらっしゃるようになりました。
何がきっかけになるのかわからないものですね。
いつ、どこで、誰と出会えたかということは、私にとってはものすごく大きかった。鮮治氏に、30万のスーツを1着か10万のスーツを3着であれば、どちらを買うのかと聞かれたことがあって。10万のスーツを3着選びがちですが、鮮治氏は30万のスーツを1着だけ買いなさいとしつこく言っていました。その背景には、モノの価値を見極めろという思いがあったんだと思います。なので、お皿や調理器具もすべて一流のものを大切に、長く使っていましたね。高いからこそ大切に扱うし、高級なお皿で食事できるという驚きはお客様にも伝わる。「儲けはいつか付いてくるし、私の道楽のために作ったお店だから」とおっしゃりながら(笑)、鮮治氏は細部にこだわっていましたね。
坂井さんは若くして西洋膳所ジョンカナヤ麻布を舞台に、フレンチと懐石を融合させた新しい料理を確立させていきますが、その自由なスタイルには厳しい意見もあったのでは?
それでも、贅沢な時代が訪れたときに王道のフランス料理を提供してもお客様は反応しないし、私のスタイルは間違っていないと開き直りました。迷っていたら鮮治氏にも申し訳なかったですし、今の自分も存在していないと思う。そういう意味で、鮮治氏は人生の恩人なんです。彼は63歳で癌で亡くなったけど、私はコンソメスープを病室に持って行ったりしていましたね。私は3歳の頃に父親を戦争で亡くしていて、鮮治氏のことを“親父”と呼んでいたんです。いつものように病院へお見舞いに行くと、看護士さんが「息子さんが来ましたよ」と話していてね(笑)。
ラ・ロシェルのオーナーシェフを務めながら、今でも受け継がれているジョンカナヤの哲学は、他にもどんなものがありますか?
食の文化を大事にしていた方だったから、お皿を通じて会話が生まれて、人脈ができるという考え方にも影響を受けています。私が渋谷のクロスタワーの最上階にお店を出して東日本大震災が起きたときも、ジョンカナヤイズムに助けられました。震災がきっかけでお店を閉めることになって、働いているスタッフや資金繰りも厳しかったですが、「人生なんとかなる。厳しい先には必ずいい時期もあるから我慢しろ」と、自分自身に言い聞かせながらやってこれた。ジョンカナヤイズムは私の中で絶対に消えませんし、今でも私の机の上には鮮治氏の写真が置いてあります。
以前、西洋膳所ジョンカナヤ麻布を再現する「ひと夜限りのジョンカナヤ」を鬼怒川金谷ホテルで開催していますが、その時の感想をお聞かせください。
2012年でした。よくいらしていたお客さんを呼んでディナーをやったんです。当時の華やかしさを再現しようということ、ジョンカナヤが思い入れのある場所だったという意味でも特別なイベントでした。ジョンカナヤの料理は今は様々なシェフに引き継がれていますが、鮮治氏を振り返る特別な日として、できれば命日に毎年やっていきたいなと思いますね。
鬼怒川金谷ホテルを訪れると、どこにジョンカナヤらしさを感じますか?
やっぱりスカルプチャードグラスですね。鮮治氏は作者のガブリエル・ロワールの工房をフランスまで見に行っていましたから。本当にガラスの塊を固めて作っているので光の屈折が違うんですね。あれを見る度に時間が巻き戻った感覚になります。その頃、何度か鮮治氏にフランスに連れて行ってもらいました。ある朝、パリで500フランを渡され、「自由に使っていいよ」と…。その日は私の誕生日で覚えていてくださったのです。金谷鮮治氏という人は従業員をとても大事にする人でした。でも、その時にもらったお金はどうしても使えませんでした。今でも私の財布にはその時の500フランが大切にしまってあります。
2018年4月掲載
坂井シェフとのコラボレーション
「ひと夜限りのジョンカナヤ」の様子を
ご覧いただけます
1942年、鹿児島生まれ。1971年に西洋膳所ジョンカナヤ麻布の初代シェフに就任。フレンチと懐石を融合させた新しい料理を開拓し、数多くの美食家たちを唸らせてきた。1980年には自身がオーナーシェフを務める「ラ・ロシェル」をオープン。その後、フジテレビ系「料理の鉄人」に出演し、“フレンチの鉄人”としてその名を轟かせ、現在も現役を貫いている。
ムッシュ坂井宏行がオーナーを務めるフレンチレストラン ラ・ロシェル。新鮮な素材をふんだんに使用した斬新なお料理は、驚きと楽しみを生みます。 格調あるインテリアと最高のおもてなしは、洗練された雰囲気を創り出します。
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