連載エッセイ 旅に遊ぶ心

2024 summer

音と遊ぶ

音と遊ぶ

詩人

石田瑞穂

旅は五感を磨く。殊には夏の音感を。

ぼくの左耳はポンコツなのだが、旅先の風景のなかで耳を澄まし、温泉につかり、美味しい酒食をいただくと、耳の聴こえがよくなるのだ。
森や高原にそよぐ涼風、夏鳥の歌、浄らかなせせらぎ、旅の地に響く佳き音に聴き入るひとときは、ぼくらの生命の証なのである。

麻生直子さんの詩集『アイアイ・コンテーラ』をめくっていたら「鬼怒川」という詩に出逢った。

  翌日も 無口な 釣り伯父さん の 近くで

  鬼怒川の流れと戯れて過ごした

  ケヌカワノナガレ

  ノースリーブの肩が 焼けてヒリヒリ

六十年前の、夏の一日。二十歳の詩人は、実の父を捜して北海道奥尻島から、遥々、海を渡ってきた。「夕餉のご馳走は 七輪で焼いた鮎が二匹」。北の島の詩人には、なぜ、鬼怒川がケヌカワと聴こえたのだろう。
「乾いた畑と関東平野」に寄る辺なくたたなずむ、アイヌの血と音。

そんな言葉の音楽に聴き入っていたら、夏の鬼怒川の音を聴きたくなった。

ざあああ、と鬼怒川が威勢良くたてる河音、遠くぽおーっと響くSL大樹の汽笛に出迎えられると、鬼怒川温泉にきた実感が瑞々しくわく。鬼怒川金谷ホテルにチェックイン。ウェルカムドリンクで涼んだあとは、早速、客室テラスの温泉に。
心と体をのびのびほぐし、俗世の塵と汗をおとす。渓谷をわたる風が深緑の葉を雪ぐ音、鬼怒の早瀬からたちのぼる豪快なせせらぎが、老鶯、カッコウ、蜩の夕涼みの歌と合奏して。なつかしき日本の音。

爽快に汗を流したら、水滴を体に纏うまま、クーラーのきいた涼しい室内で、ナポレオンというシャンパーニュを開栓する。その名のごとく、ポオン、といよいよヴァカンスがはじまる音。

ああ、これぞ至福の音。

そして、おもむろに、バッグから幻の名盤フリードリヒ・グルダ「J.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲集全曲」四枚組CDをとりだしプレーヤーにセットする。いつも旅に携行する、お気に入りの音楽。コンパクトながら音のいいオーディオが客室に設えてあった。鬼怒川とともにグルダのソロピアノが玲瓏に流れる。時に瀬音とうねってからまり、時にセッカやオオルリの美声と競う。

このバッハ全曲集の第二巻は一九七三年五月にフィリンゲンで録音された。ぼくの生まれた誕生年と月に。グルダの弾く「BMW869」は時代に先駆けたミニマルミュージックにも聴こえるし、「BMW467」はポール・モーリアばりのかあるいタッチ。グラスの涼やかな泡音とピアノに聴き入り、自分の来し方にも耳を澄ます。

鬼怒川渓谷の夏と響き合う体験を、独り愉しむ。

石田 瑞穂

石田 瑞穂

詩人。代表詩集に『まどろみの島』(第63回H氏賞受賞)、『耳の笹舟』(第54回藤村記念歴程賞受賞)、新刊詩集に『Asian Dream』がある。左右社WEBで紀行文「詩への旅」を連載中。

「旅に遊ぶ心」は、旅を通じて日本の四季を感じ、旅を愉しむ大人の遊び心あるエッセイです。

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