連載エッセイ 旅に遊ぶ心

2022 autumn

ワインと遊ぶ

ワインと遊ぶ

詩人

石田瑞穂

スロベニア最古の都プトゥイでは、秋に〈詩とワインの日々〉という文学とアートの祭典が催され、ヨーロッパ諸国から観光客がつめかける。

プトゥイはプラハを一廻りちいさくした美しき城塞都市。詩祭のある十日間はブティックや教会、石の路地のいたるところにアートが展示され、バーやカフェでは各国を代表する詩人たちが朗読やトークに華を咲かせる。そして、フェスティバルで観光客に供されるグラスワインは、すべて無料なのである。

コロナ禍以前のある年に、ぼくも招待をうけた。プトゥイ城内のワイン蔵で中世の燭台に火を灯し、グラスを片手にセルビアの女性詩人ドラガナ・ミラノヴィクさんと朗読を愉しんだ晩のこと。ニコラと名乗る老紳士が話しかけてきた。カバイというワイナリーのオーナーだと自己紹介しながら「私の祖父が愛唱した詩を、ぜひ、あなたに伝えたくて」と、太く響くバリトンで、

  私の亡きあと ぶどうの樹のそばに埋めておくれ

    私の亡きあと その根が骨を潤してくれるように

と朗唱してみせる。見事な酒精の詩に、ぼくは感動し、老人とグラスをあげて呵々大笑したのだった。

帰国後、ぼくはその詩が東欧の詩人の作ではないことを知った。詩は八世紀のアッバス朝イスラム帝国の大詩人アブー・ヌワースの「酒を注げ、そして歌え」であった。紀元前六十九年にローマ皇帝ウェスパシアヌスが選帝されたプトゥイは、欧州最古のワイン銘醸地でもある。そこに古代アラビア世界の詩が口伝されていた…なんてロマンに酔うのもワインの興だろう。

詩祭のあとの休日。ニコラの家にまねかれて、第二都マリボルに逗留した。東欧独特のオレンジの屋根瓦に蜂蜜色の石造りの家々が列ぶ、マリボルのワイン造りの歴史は、二千四百年にもおよぶという。古代ローマ期とおなじ、床下に設えた土器でワインを醸すクヴェヴリも見学した。冷涼地のスロベニアで醸されるのは、ほとんどが白ワイン。しっかりした酸味で旨味とコクが強いが、異邦の野花のような可憐さも感じられた。

いまも思い出すのは、ニコラがつれていってくれた〈オールドワインハウス〉である。苔むした石の軒先には、ぶどうの古木がまっ赤に紅葉した蔓を這わせていた。樹齢四百年。いまも現役でワインの実をつけているという。幹は痩せほそっているが、ホメロスの曳く杖のごとき幽寂閑雅ゆうじゃくかんがな威厳を漂わせていた。ニコラは祈るようにあの詩を口遊み「この樹が私たちの未来永劫の家なのです。いいでしょう?」と、ほほ笑んだ。

石田 瑞穂

石田 瑞穂

詩人。代表詩集に『まどろみの島』(第63回H氏賞受賞)、『耳の笹舟』(第54回藤村記念歴程賞受賞)、新刊詩集に『Asian Dream』がある。左右社WEBで紀行文「詩への旅」を連載中。

「旅に遊ぶ心」は、旅を通じて日本の四季を感じ、旅を愉しむ大人の遊び心あるエッセイです。

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