詩人
石田瑞穂
旅先での美術館巡りもいいけれど、ホテル内にさりげなく飾られたうつくしいものたちと邂逅するのも、旅の愉しみのひとつ。俳優ロバート・デ・ニーロが経営するニューヨークの〔ホテル・ザ・グリニッチ〕で出逢ったジャクソン・ポロックの大作。パリの〔オテル・ダングラテール〕に架けられた作家ジャン=ポール・サルトルの手稿。それらはたんなる装飾品ではなく、ホテルの〝心〟を告げてくる。
鬼怒川金谷ホテルでも、麗しきものに眼をうばわれることが度々だ。
ぼくが来館のたびに見惚れてしまうのが、前衛書家篠田桃紅の遺墨「金谷」である。高所落筆で書かれた、鋭角的でデザイン精神に富んだ楷書。冬空にすうっと星が流れるように、躊躇うことなく長くひかれた「金」の入屋根が印象的だ。伝統書流ではありえぬ角度で打たれる点、ありえぬ方向へ折れ曲がる口構など、桃紅の強烈な美意識と個性、良寛書に匹する自在さを感じさせる。
篠田桃紅は自身の書について、こんな詩的な言葉を述べている。
「書は截りながら集中するということそのもので、余白に心のはたらきをこめていなければならない」。
書家にとって書くことは、線を墨で塗ることではなく、白紙空間を感覚で「截る」行為にほかならない。書の線が生みだす余白も、ブランクではなく、書く者の心と字の生命が宿った宇宙なのだ。
桃紅書には珍しい貴重な楷書作品「金谷」が、いつ、どんな縁で鬼怒川金谷ホテルにもたらされたのか。ホテルの方にたずねても明確に知る人はいないようだ。そんな拘りのなさとともに、これだけの書作品が、歳月を経ていつのまにかホテルの人と空間にごく自然になじみ、遂には一体化していることに驚嘆してしまう。
勝手な推察だが、「金谷」は桃紅老齢の墨筆ではないか。人生の冬の時季-老いの渋味とやつした線条のうちにも、凛とおかしがたい勁さと、老いてなお精神の自由を失わない瑞々しさが漲っている。黄金の余白も枯淡の光に濡れながら、書字と響き合い、活き活きと燦然と煌めいている。
ダイニングでの酒食、シガーサロンでの葉巻、温泉の後先にぼくは密かに篠田桃紅の書前にたたずむ。リラックスした滞在中も心地好く背筋を伸ばす瞬間があり、お会いしたこともない桃紅さんと密かに対話する気分だ。佳いホテルにはそんな時間が流れている。
篠田桃紅の書「金谷」からは美とむきあうきびしさと自負が伝わってくる。けれども懐深い余白からは、物事のきびしさを知る人に特有のぬくもりとやさしさが言わず語らず寄せてくる。
書白一体の優美。その精神は、いまや、鬼怒川金谷ホテルのうつくしくも懐深いもてなしの心になってはいまいか。
石田 瑞穂
詩人。詩集に『まどろみの島』(第63回H氏賞受賞)、『耳の笹舟』(第54回藤村記念歴程賞受賞)など。最新詩集に『流雪孤詩』(思潮社)。
「旅に遊ぶ心」は、旅を通じて日本の四季を感じ、旅を愉しむ大人の遊び心あるエッセイです。