詩人
石田瑞穂
ここ数年、執筆の仕事で日光鬼怒川を訪れることがおおくなり、栃木の佳品にふれる機会も増えた。
日光の純米酒、味噌、醤油、やなの炉端焼で喰う鮎、米、川の温泉。どれも栃木の風土から生まれ、時を累ねてきた伝統の品々で、都会では出逢えない賜物ばかりだ。鬼怒川温泉郷への往来中、特急電車の車窓から眺める、日光の山裾までつづく広大な田園、いつまでも山の端に残照する夕焼け。ぼくの街ではとうに潰えた、古き善き栃木の山里が、胸を締めつける郷愁と安堵をもたらすのである。
先日も新たな旅の発見をした。
鬼怒川金谷ホテルで一泊した翌日。ぼくは栃木駅で下車し、〔蔵の街〕に遊んだ。巴波川の両岸に建つ白壁土蔵、木と大谷石の豪奢な和洋折衷様式で建てられた横山家を見て過ぎ、旧栃木町役場庁舎のライムグリーンの木造洋館まで散歩する。もとは銀行だったという、石の館のカフェで小憩した。いまも澄んだ巴波川を太った鯉が泳ぎ、高瀬舟が流れていく。ここにくると、大自然だけではない、商都栃木の文化と時の深さを実感するのである。
幸来橋でタクシーを拾い、その巴波川を藤岡方面へ。渡良瀬川べりの藤岡町、石川という字で下車した。
そこに、お目当ての鰻屋があった。大堤を降りてすぐの店である。渡良瀬川岸の柳林から涼風が吹いて、田んぼの水鏡に漣を生んだ。
いまは亡き祖父が、渡良瀬流域の佐野の出身で、鰻が好物だった。ぼくの鰻好きも祖父ゆずり。月に一度は浦和の老舗鰻屋で呑む。祖父のふるさとの川辺で鰻を味わいたかったのだ。
先附には甘露煮がでた。これも好い。祖父が「ざっこ」(雑魚)と呼んでいた田魚、コハゼ、コブナなどである。甘すぎず、川魚特有の蜜蝋めいた香と苦みが藤岡の〔新波〕という純米酒によくあった。身の締まった鯉の洗いにつづいて、鰻がいらした。地焼き、という備長炭で焼いただけの白焼き。鰻の脂本来の芳しさがたまらない。外側が音までぱりぱりに焼けているが、雪白の身は驚くほどしっとりと瑞々しい。
鰻は、静岡の吉田で養われる共水鰻、那珂川の天然鰻、だという。店主いわく「ガキの時分に食べた、渡良瀬の鰻の味がする」とか。重箱をはみだすようにのせられた鰻重はふっくらと蒸し焼かれ、表面が黄金色に照り輝いている。鰻は、口中で、米とともにとろけるようにほぐれた。
冷房のいらない、川風の通る店内。田からは凄まじい蛙声がし、渡良瀬川からは負けじと蜩がおこる。青空には悠々と白鷺。鰻を頬ばり、酒で雪ぎ、祖父と無言で呑みかわしている気がした。
石田 瑞穂
詩人。詩集に『まどろみの島』(第63回H氏賞受賞)、『耳の笹舟』(第54回藤村記念歴程賞受賞)など。最新詩集に『流雪孤詩』(思潮社)。
「旅に遊ぶ心」は、旅を通じて日本の四季を感じ、旅を愉しむ大人の遊び心あるエッセイです。