
詩人
石田瑞穂
旅の記憶は儚い。旅上の記憶は幻のように朧で、昨日みた風物は、はやくも今日の時間の背後へ飛び去ってしまう。そんな想いが、如実になるのは、旅先で春の花々と出逢う瞬間だ。
日光鬼怒川は桜の名所で、しかも多彩なお花見の愉しみがあり、毎年のように通っている。日光東照宮の周辺には樹齢二百年をこえる名木が点在して、しだれ桜なら、樹齢三五〇年、樹高一八メートルの〔虚空蔵尊の桜〕、歴史ある門前町を散策しながら愛でる〔高田家の桜〕や〔岸野家の桜〕など。お寺や旧家を背に、滝のようにしだれる満開の花、きらきら舞い散る桜吹雪は好い。染井吉野でいえば〔鬼怒川護国神社の夜桜〕。鳥居前の石段から見上げる、ライトアップされた桜と色鮮やかな唐傘たちが華やかで、これぞ温泉街の桜という粋な演出、旅の情緒がある。人と桜がおたがいに時と護りあう努力をつみ重ね、それらが交ざりあって咲く容もことのほか美しい。
人里の桜より開花は遅いものの、いちどはお花見したいのが〔中禅寺湖北岸の大山桜〕。冠雪した男体山、漣だつ翡翠色の湖水に、淡雪色の桜のコントラストが夢のよう。その桜と、栃木の春を代表するアカヤシオ、青空へまっすぐ花枝をのばす杏が、湖畔に揃い咲きしていた。春の絶景、とはまさにこのこと。ぼくは金沢の犀川大橋で粉雪にまみれた杏の花と室生犀星の詩碑「あんず」をおもいだした。
地ぞ早やに輝やけ
あんずよ花着け
あんずよ燃えよ
ああ あんずよ花着け
犀星の詩には春にうかれる肉声そのままのはずみがある。
いま、ここを歩き過ぎれば、一生、おなじ花とは逢えないかもしれない。ならば、なおいっそう。旅の春と心は踊りたがり遊びたがるのだ。

石田 瑞穂
詩人。詩集に『まどろみの島』(第63回H氏賞受賞)、『耳の笹舟』(第54回藤村記念歴程賞受賞)など。最新詩集に『流雪孤詩』(思潮社)。
「旅に遊ぶ心」は、旅を通じて日本の四季を感じ、旅を愉しむ大人の遊び心あるエッセイです。
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