
詩人
石田瑞穂
釣好きで鬼怒川にも遊んだ『山椒魚』や『黒い雨』の小説家、井伏鱒二が永らく詩に憧れ、老境になってやっと『厄除詩集』を自費出版したことを知る人はすくない。「冬」という詩篇には、こんなユーモラスな二行があって、
昔の人が云ふことに
詩を書けば風邪を引かぬ
日乗、詩を書いているぼくは、え、本当に?とおどろいてしまった。
とまれ、大先輩の云ふことを信じて電車にとびのり、詩を書きに鬼怒川にでかけたのだった。
紅葉も散り終わった冬山の斜面に陽が射し、林がほんのり白んで輝いている。つめたい大気はおいしくて、凛と、清冽。ここちよく心身をひきしめてくれた。ぼくは、人気のない、無音と静寂だけでできている冬の鬼怒川が大好きだ。東京や埼玉から至近の奥鬼怒だが、龍王峡はじめ自然の宝庫で、歴史ある伝承もおおい。そんな、ぼくのお目当は「立ち枯れ」。鬼怒川特有の翠緑の水面から、葉を落とし白枯れた裸の木々が、すっと、たちあがっている。
その姿は、幽玄で、天地の骨のようだ。
平家の落人伝説がつたわる奥鬼怒で、ぼくはこんな旅の幻を視る−あれらは平家の妃たちだ。還らぬ夫の無事を祈り、いつまでも白拍子を舞ううち、木となり立ち枯れて、天に召されたのだ。冬の幻を密かにいだきつつ、ぼくは河原の湯にゆったりと浸かり日々の疲れをほぐす。山採れのきのこ汁と山菜天ぷらで一杯呑って、心も体も芯から温まる。嗚呼、詩は一行も書かなかったけれど、この小旅行がぼくの詩になった。
こんな極楽トンボな渡世なら、たしかに風邪も引くまい。

石田 瑞穂
詩人。代表詩集に『まどろみの島』(第63回H氏賞受賞)、『耳の笹舟』(第54回藤村記念歴程賞受賞)、新刊詩集に『Asian Dream』がある。左右社WEBで紀行文「詩への旅」を連載中。
「旅に遊ぶ心」は、旅を通じて日本の四季を感じ、旅を愉しむ大人の遊び心あるエッセイです。
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