詩人
石田瑞穂
電車の旅が好みである。行きも帰りも呑みたいからで、出発を寿ぐ車中の酒も、旅の醍醐味のひとつ。作家の吉田健一も『汽車旅の酒』にこう書いたではないか。
先づ目の前に酒があって、それで旅の話も弾む
コートのポケットにマイ盃と財布だけをつっこんで、浅草駅から特急スペーシアにとびのった。ちょっと贅沢にコンパートメント車の切符を買って。ノスタルジックな赤白の特急りょうもうもいいが、スペーシアにはビュッフェがあり、酒、肴の補充にも不安がない。
と、そのまえに。老舗弁当屋深川太郎で深川飯と栃木の酒天鷹を買ってゆこう。
すると汽車旅の愉楽もいやおうなく弾み、特急はスピードにのってレール音がスウィングしはじめ、車窓の景色は風になって飛ぶ。水鏡の田が、堤一面の菜の花が、桜並木が、流れるように過ぎ去る。眼のなかを吹く春風に、日常は雪がれて、萌黄の山が近づく。
いよいよ、大理石のテーブルに弁当と酒瓶をおき、仕覆から小山冨士夫の花酒觴をとりだした。コンパートメントはまるで疾走するホテル室のよう。アガサ・クリスティーの旅気分。ふっくら炊かれた浅利と飯、出汁をたっぷりふくませた厚焼玉子を交々つまみ、盃をくいっとあげる。煮浅利と玉子焼きの甘辛コンビは、まさにエンドレス。にしても、酒を唆る肴であり肝臓にも善い深川飯とは、なんとすばらしき江戸の味だろう…。
嗚呼、至福。ただただ、きもちよく酔い、眼と言葉を瞑り、心の風に身をまかせて。
石田 瑞穂
詩人。代表詩集に『まどろみの島』(第63回H氏賞受賞)、『耳の笹舟』(第54回藤村記念歴程賞受賞)、新刊詩集に『Asian Dream』がある。左右社WEBで紀行文「詩への旅」を連載中。
「旅に遊ぶ心」は、旅を通じて日本の四季を感じ、旅を愉しむ大人の遊び心あるエッセイです。