詩人
石田瑞穂
人生には余白も必要なのである。仕事や世事から潔くきりはなされ、〝私〟という文字がいっさい書かれていない、まっさらな余白。その白に身も心も休めること。
それが、旅、ではなかろうか。
昭和六年の冬、鬼怒川温泉に遊んだ歌人与謝野晶子は中禅寺湖へも足をのばし、こんな一首を詠んでいる。
うらさびし山の湯槽にあふるるや
霧よりも濃く曇る温泉
温泉の白い湯気をみて、硫黄の香をかいで、やっと、心の底からあたたまる。日常の枷から解き放たれ、遠い山の湯にいることを実感する。そんな、小旅行ではありきたりな瞬間が、多忙な日々ではけして味わえない、濃やかな情緒におもえてくる。生きている、幸せを感じる。
そう、ぼんやり考えつつ、鬼怒川金谷ホテルの温泉からあがりシガーサロンで一服していたら、金谷家が長年蒐めたオールドノリタケの灰皿たちが目にはいった。
晶子さんの歌ともかさなる、明治大正浪漫主義のノスタルジヰあふるる和製アール・デコの色絵皿たち。見惚れていると、べつの魅力にも気がついた。
意匠で全体をうめる西欧陶磁器とちがい、ノリタケの色絵は余白がたっぷりとられ、それにより器全体が活き活きと輝いている。絵と余白のバランスが絶妙で、その間の呼吸は、日本の伊万里焼や有田焼の伝統美だろう。
鬼怒川の冬景色を、初雪が、白く染めはじめた。
石田 瑞穂
詩人。代表詩集に『まどろみの島』(第63回H氏賞受賞)、『耳の笹舟』(第54回藤村記念歴程賞受賞)、新刊詩集に『Asian Dream』がある。左右社WEBで紀行文「詩への旅」を連載中。
「旅に遊ぶ心」は、旅を通じて日本の四季を感じ、旅を愉しむ大人の遊び心あるエッセイです。